1.百反通り ⇐
探索範囲の左上の隅にある地蔵の辻から大崎駅近くの目黒川まで百反通りに沿って東に向かって流れていた地域です。
薄い青の線が品川用水や関連する川などの流路を示しています。たまたま目黒川のほうから調べ始めたので探索の順番はこれと逆方向ということになります。
さて、この地域には大きく2本の水路があると思います。
1本は地蔵の辻から中原街道と国道1号を越えて東に向かって百反通りに沿って下り、途中で北に直角に曲がって大崎駅の下を通り、山手通り沿いに目黒川の居木橋に進み、居木橋のそばで目黒川に流れ込むルートです。
もう1本は国道1号を越えて百反通りに入ったところで南に逸れ、貴船神社の前の尾根をたどって横須賀線のそばの妙光寺の先に流れ落ちていくルートです。こちらのルートが水路だったという直接的な記述を見かけたことはありませんが、一部資料の図には水路がちょっとだけ描かれているのに気づいたので、こちらも水路だったのだろうと考えています。
三嶽橋 ~ 大崎駅
では大崎駅の南東にある三嶽橋(みたけばし)からスタートです。この橋は第一三共の正門(だと思う)と山手通りを目黒川を越えてつなぐ橋で、路面がアーチ状に盛り上がっているおもしろい形の橋です。
この橋をスタート地点に選ぶと品川用水を遡ることになるのですが、なぜあえてそうするかというと、ここに品川用水の痕跡としてとても有名な「穴」があるからです。品川用水の痕跡を探す行程のスタートとしてふさわしい(?)かと。
三嶽橋から目黒川の南側の壁を見ると黒い排水口が見えます。これが品川用水の終点の1つだそうです。以前はこの排水口のすぐ向こう側に小さい神社があったと思うのですが、今(2024年)は遊歩道化されて無くなりました。見えていないだけで工事フェンスの奥に移設されているのかもしれません。
ところで、春に目黒川沿いの桜を見に行った時にこの排水口を眺めたらビックリしました。川面に浮いた花びらの様子から、この排水口が現役で今でも水が流れ出ていることが分かったんです。
下水道に使われているはずもないし、はるか玉川上水から今でも流れてきているんでしょうか。どきどきします。
ちなみにこの排水口、「品川用水沿革史」という本によると、昭和7年に三嶽橋の上流側にあった注ぎ口を橋の下流側に移動したものだそうですが、上流側にあったころの大正時代の地図と比べてもほんのちょっと動いただけですし、水路の痕跡としての魅力は失われていないように思います。明治(1911)の地図では橋は山手通りの向かい側にある春雨寺よりも東に描かれ、水路は春雨時の正面(つまり今の橋のあたり)に描かれています。
今の地図を見ると、三嶽橋から少しだけズレた不思議な位置に歩道橋があります。この歩道橋、じつは昔の三嶽橋の痕跡で(古い地図ではそのあたりに橋が描かれている)、逆に今の三嶽橋のあたりで水路がつながっていて、入れ替えるような工事をしたんじゃないか?などと妄想してみました。

さて、1つ上流側の橋である居木橋に向かいます。この橋はどの古い地図にも描かれているもので、周囲の道の様子は変わってもこの橋の位置だけは変わらずにいるようです。目黒川を渡るときの要所だったのでしょうか。
居木橋のそばに水門のようなものがあります。
この写真の左奥のほうが大崎駅への道路(山手通り)ですが、古い地図によれば水路はその山手通りよりも一旦南側に逸れたあとこの水門のあたりで合流していたようです。水門のところまで行って下流側を眺めると次のように少し凹んだ土地になっています。
山手通りから一旦ビルの裏を通り、青い矢印に沿って水門のところに流れていったのではないかと想像してみました。地図にすると次のような感じです。ここのところは品川歴史館の「品川用水マップ」や荏原第五地域センターの「第五つうしん」では山手通りの北側を回り込んでいたり反対に南側をJR寄りに流れていたと説明されているので「諸説あります」状態のようです。
大崎駅の跨線橋を渡り、その昔明電舎の工場があったあたりのでっかいビルを抜けるとビルと百反通りの間に小さい公園(ひふみ公園)があります。
百反通りから流れ落ちてくる水路の位置とも合っているので、用水跡に作られた公園ではないかと考えました。
大崎駅 ~ 百反通り
公園の東側を抜けると次は百反通りです。百反通りはかなり高いところを通っているので、急な坂になります。坂の向こうに百反通りが見えてきます。
この途中のマンホール、大きな水音がします。いかにも暗渠っぽいです。品川用水の暗渠の痕跡として有名な「権現台踏切」のマンホールと同じですね。
このあと百反通りにぶつかると、そこに唐突に横断歩道があります。これも水路の上にあった橋の痕跡なのかもしれません。右から百反通りを下ってきて手前の坂に流れ落ちていたところを想像してみました。
ところでこの上り坂の左側(東側)にも隣り合うようにもう1本上り坂があって、他の資料ではそちらが水路だったという説明がほとんどです。例えば見た限りの古い地図はすべてもう1本の坂のほうに水路が描かれています。ただ、実際に歩いてみると、そっちが道でこっちが水路だったように思うのです。
もう1本のほうの坂を上から見ると、途中に神社(明力稲荷大明神/みょうりきいなり)があってそこでクランク状に急カーブしています。
この急勾配でこんなに水路が曲がるのも不思議だし、鳥居のすぐ前が水路だったというのも不思議です。(ここは妄想を楽しむことにします笑)
百反通りはゆるく蛇行しながら西に進む坂道です。一定の勾配で登っていく感じなのでいかにも水路があった場所なのだと思わされます。
地面の高さを感じるので最初は尾根のようなところを通っているのかと思ったらそうでもなくて、よく見れば百反通りと交わる細い路地の多くが百反通りに向かってほんの少し下り坂になっているので、百反通りが凹んだところなのだと分かります。
等高線を調べると次のようにちょっとした谷を通っていました。
このあと出てきますが、尾根のような高いところは百反通りよりも南にあって、百反通りから分岐した道が南東方向に延びています。
三ツ木通り ~ 百反通り
というわけでここで百反通りを進むのを一旦やめて、ちょっと戻ってこの「尾根を通る道」に行ってみます。どこまで戻るかと言うと、戸越銀座をまっすぐ南東に向かって進んだ先にある三ツ木通りの端(湘南新宿ラインにぶつかって途切れているところ)です。
写真は東西に延びる三ツ木通りの歩道から撮ったもので、右奥が湘南新宿ライン、左奥が妙光寺です。ここも妙な位置に横断歩道があります。三ツ木通りに沿っていた水路の橋の跡かもしれません。正面に赤く塗られた細い路地が見えますが、この路地が百反通りから分岐した流れの終点ではないかと想像しています。左奥の妙光寺は百反通りからの下り斜面の途中に建っている感じですが、その斜面の終端(下りきったところ)に沿ってこの路地が延びていているようです。この路地を反対側から見ると次のようになっています。歩道も広いしカーブもいい感じで水路の跡っぽく見えます。
さらに路地を抜けて次の道路に出たところは次のようになっています。この右側が斜面になっていて、百反通りやその奥までずっと登っていきます。
地図上で推測した水路を示すと次のような感じです。妙光寺の北側はビルのために大きく掘った形になっているのだと思いますが、元々は斜面が横須賀線の下をくぐりながら北西に向かって高くなっていった様子が見て取れます。
遠く北西の百反通りに向かって登っていきます。横須賀線のそばまでいくと横須賀線の高架(写真では上が新幹線、下が横須賀線)が尾根筋と交差するところがありますが、この部分だけ高架が尾根の上に「乗っかっている」ように見えます。正面に横須賀線の下をくぐる地下道の入り口も見えます。
この写真の高架のちょうど180度反対側から見てみると、次のようになっています。
かなりの急坂を尾根に向かって登っていきます。そしてこの坂を登りきったあたりに小さな四つ角があります。
「止まれ」と書いてあるほうが横須賀線をくぐって三ツ木通りに下っていく方向です。その道が「大井道」、右奥が「蛇窪(へびくぼ)道」、左手前が「停車場道」、右手前がこれから進んでいこうとしている「桐ケ谷道」だそうです。この写真を撮っているときの足元にある道標(大正6年!)にそう掘られています(笑)。「停車場道」は大崎駅を指しているのでしょうか。
地図で見るとこうです。
この四つ角を過ぎて尾根に沿って高いところを通るように矢印方向に水路があったと想像しています。
さて、百反通りに向かいます。三ツ木小学校の脇を過ぎます。行ったのはちょうど下校時間でしたね。この道も百反通りと同じように一定の勾配を保って登っていくので水路があっても不思議はないと感じます。
さらに登っていくと右側に庚申供養塔があります。
ここを過ぎるとすぐ大崎中学校のグラウンドにぶつかって道は一旦途切れます。
別の道を使って中学校を迂回してちょうどこの正面に続いている道に戻ります。
2つの路地同士を無理矢理つないだような構造も水路の痕跡であるように思います。そして少し先に緑色の金網が見えます。
次の写真がそれ。昔はここに池があったらしいです。品川用水の水も流れ込んでいたのかもしれません。
そしてもうすぐ百反通りと合流するというところで「緑道」が現れます。「緑道」と呼ばれるところはたいてい昔の水路の跡で、暗渠の上を再利用しにくいので「緑道」化しているのだろうと思います。
緑道の上はこうです。
この緑道がなかったら、この尾根道にも水路があったのでは?と思い付くことはなかったと思います。水路跡であったという根拠がもう少し欲しかったので調べてみたら、明治44年の地図にはこの緑道に沿って貴船神社の少し手前までまっすぐな水路が描かれているのを見つけました。地図上の水路はそこで唐突に終わっているのですが、明治44年の段階でそこから先はすでに暗渠になっていたのかもしれません。
緑道を抜けると水路の跡っぽい歩道が右(百反通り側)に曲がります。
そして曲がったあとはすぐ百反通りに合流します。向こうに百反通りが見えます。
この合流点は少しおもしろいです。百反通りを上流側から眺めるとこうなっています。
この側溝が浮き出ている形、何なんでしょうね?右側の歩道がやけに広いのも水路の跡っぽく見えます。
桐ケ谷通り ~ 地蔵の辻
さて、国道1号線と中原街道を越えて地蔵の辻に向かいます。
この辺りの水路が難しいんです。大正の地図では地蔵の辻からの水路はまっすぐ百反通り沿いに進むのではなく、一旦南西側に逸れて、少し進んでから百反通りの上に戻ってくるように見えます。ここを等高線と照らしてみると次のような感じです。
百反通りにある特徴的な5差路のところは少しだけ凹んでいて、それよりも南側に小さく尾根状の高みがあるようにみえます。青い矢印のようにぐにょっと曲がった水路がこの高いところに沿って流れ、さきほどの側溝が浮き出ている合流点に向かっていたと考えるとしっくりくるのですが、根拠は弱いです。
実際歩いてみると、地図で見るよりもこの青い矢印に沿った高みを強く感じます。
もう少し拡大した地図で見てみます。
国道1号と中原街道の間に小さい公園があって、その辺りが他よりも少し高くなっているように感じます。公園の前には例によって橋の名残りらしき横断歩道があります。横断歩道がそれほど必要な路地にも見えないです(笑)。
中原街道を渡った向こう側に荏原金刀比羅神社(えばらことひらじんじゃ)があります。ビルの間にあるのでうっかりすると見過ごしてしまいそうです。
水路のそばに神社あり、という経験則を思い出します。
そしてさらにその向こう側、旧中原街道沿いには旧中原街道供養塔群があります。
ここのお地蔵さまはおもしろいことに、旧中原街道沿いにあるのに街道のほうを向かずに横を向いています(写真では背中側が見えています)。お地蔵さまの背後に水路があったんじゃないかなと想像してみました。この想像を裏付けるかのように、旧中原街道の反対側にも水路の跡っぽい路地があります。
しかもちゃんと(?)行き止まりです。水路の跡の道路は行き止まりになりがち、という経験則に合っているようでわくわくさせられます。
このあとは星薬科大の裏を通って、地蔵の辻までほぼまっすぐです。
ゴールは「後地(うしろじ)」と呼ばれる地区にある地蔵の辻です。品川用水に関する最重要スポットの1つですね。この交差点は後地交差点とも呼ばれています。こういう何気ない街角が昔は重要スポットだったというのがわくわくさせられます。

玉川上水から南東向きに流れてきた水路が青い矢印のように大崎側(左前方)と大森側(正面)にここで分岐していたそうです。
こんな小さな交差点でも昔の橋の跡と思われる横断歩道が狭い範囲に混みあうように並んでいるのがおもしろいです。
次はこの正面の大森方向の道を水路の跡に沿って戸越公園のほうへ進んでみます。
次は「2.戸越」です。