2.戸越

 地蔵の辻から戸越公園の手前まで南東に向かって流れていた地域です。 

 2.戸越 
    5.下神明
     6.ゼームス坂
      7.目黒川

出典:国土地理院電子国土Web(矢印などは加工部分)

 薄い青の線が品川用水や関連する川などの流路を示しています。

 この地域には大きく3本の水路があると思います。

 1本は地蔵の辻から星薬科大学のそばを抜けて戸越銀座の谷に流れていた川(おそらく自然の川)に流れ込むルートです。戸越銀座から先は「1.百反通り」の最初に出てきた第一三共下の排水口から目黒川に流れ込みます。

 もう1本は地蔵の辻から南に進み、平塚橋のあった交差点付近で中原街道を越えて戸越公園に流れ込むルートです。戸越公園を越えるとグッと北にカーブしながら最後は「1.百反通り」に出てきた三ツ木通りの川に合流します。

 さらにもう1本は地蔵の辻から南に進み、同じく中原街道を越えて都道420号に沿って南東に進み、国道1号を越えてすぐ南に曲がってそのまま国道1号に平行に流れていくルートです。東西方向に流れている立会川に流れ込むものと、立会川を越えて西大井駅のそばを通り、大森駅の北側を通って東京湾に流れ込むものがあります。

地蔵の辻 ~ 戸越銀座

 では地蔵の辻をスタートします。

 戸越銀座へは大崎方向と大森方向のどちらから進んでも到達するので、まずは左の大崎方向に進みます。

 大崎方向の水路に沿っていくと右側(南側)に星薬科大学がありますが、そこを通り過ぎて大学の壁づたいに右(南)に曲がって大学の東側に入ると戸越銀座まで流れる水路の跡と思われる路地に入ります。曲がってすぐ有名な「盛り上がった歩道」が現れます。次の写真はその路地の真ん中あたりから北のほうを撮ったものです。「盛り上がった歩道」が遠くに見えます。この左側の大学寄りの歩道が水路の跡なのでしょうね。

 今度はこの通路の南のほうを眺めます。

 大学寄りの歩道はこのすぐ先で途切れています。路地も少し右に曲がっているのでそこから先は路地自体が水路の跡なのでしょうか。一時的にここから先だけ暗渠になっていた時期があるのかもしれません。路地はこのあと旧中原街道にぶつかって途切れます。でも旧中原街道のちょうど反対側をよく見ると、ちゃんと水路の跡があります。

 この奥は中原街道に続いているのですが、さすがにここは通り抜けられそうもなかったので、別の道を使って回り込むと、中原街道の歩道脇に水路の跡の続きがあります。

 さらに中原街道の反対側に渡って、上の水路跡のちょうど延長線上にあたる部分を探すと、ここにもしっかり水路の跡の続きがあります。

 これは明らかに通路ではないので、このすぐ隣の路地で迂回してこの向こう側に回り込みます。しかし水路の跡はそちら側には見当たりません。

 位置は合っているはずなので、このままこの路地を南のほうに進みます。路地はクランク状に曲がり、その先に白っぽいコンクリートで覆われている部分が現れます。これが水路の跡なのでしょう。

 このクランクを右のほうに進めば戸越銀座方向に向かいます。

 ちょうど縦半分にコンクリートで覆われた路地が延びていきます。暗渠っぽさ満点ですね。

 そして三叉路(?)に行きつきます。ここでこの路地は縦に分けられて、右半分のコンクリート面のほうはそのまま右にカーブを描きながら延びていきます。一方、左半分のアスファルト面のほうはここで終了です。

 なんとなくですが、ここで左に曲がるほうの路地は水路ではなく道だったのではないかと思われます。ちょっと寄り道してそちらに進んでいくと別の道路(実はこの道路も品川用水の跡らしいです。あとでもう一度出てきます)に出ますが、その出たところで振り返って路地の様子を見ると次のようになっています。

 はっきりした理由はないのですが、この細い路地の両サイドは割りにしっかりした塀になっていたり、その塀の内側に上がるための小さい階段があったりするので、水路の跡というよりは水路に近付くための細い通路だったのではないかと想像してみました。

 再び三叉路のところに戻ってコンクリート状の路地を進みます。

 とてもすれ違える幅じゃないので、向かいから人が来ないといいなと念じつつ(笑)、暗渠の湿り気を感じながら先に進みます。

 最後は戸越銀座駅の裏の道路に出ます。

 道路に出るところは小さな階段になっています。

 戸越銀座はここから1ブロック先になりますが水路の跡はここで途切れます。ここまでくれば水路が戸越銀座の川に流れ込んでいたというのは明らかと言っていいように思いますが、流れ込むその合流点の跡は発見できませんでした。というよりも昔の川は今の戸越銀座の真下ではなく、この辺りまで蛇行していて、この階段のところが合流点だったのかもしれません。

 ここで一旦、星薬科大のほうに戻り、地蔵の辻からもう1本東側の、先ほどの「盛り上がった歩道」のある路地と平行に延びる路地を南向きに曲がります。

 この正面は荏原第一中です。水路はそのまままっすぐ流れていたと思うのですが、中学校のフェンスに突き当たって途切れ、路地のほうも右に曲がったところで行き止まりです。でも行き止まりは水路の跡であることを匂わせます。

 しょうがないのでこの写真のところに戻って右に曲がり、隣にあるさきほどの「盛り上がった歩道」のある路地に再び出ます。そして旧中原街道に出て中学校で途切れたところの反対側に行ってみます。するとちょうど反対側にも北向きの路地があるので、おそらく水路の切れ端なのでしょう。こちらももちろん行き止まりです。

 振り返って旧中原街道の反対側を調べると、ほんのちょっと左にずれたところに、先に進める路地があります。このぐらいのずれは水路の痕跡としてよくあることだと勝手に思ってます。

 この路地をさらに進むと中原街道に出ますが、ちょうど路地の出口と同じ位置に歩道橋があります。ということはやはりこの路地も水路跡と考えていいんじゃないでしょうか。まさに「水路跡あるある」です。

 歩道橋を渡って先に進みます。

 東急池上線の線路に突き当たります。ここでは一旦線路に沿って右に曲がりますが、戸越銀座駅のそばの踏切を渡ると、この路地の延長線上(写真の真正面)にもまっすぐ路地が延びていることがわかります。

 その踏切は少し低いところにありますが、踏切を渡ると短い坂を登って元の水路の高さまで戻ります。右向きの青い矢印のところが水路跡だと思う路地です。

 この青い矢印の向きに進むと今度は戸越銀座の谷間の川に向かって流れ込んでいきます。左の建物の前の広めのスペースが水路の跡っぽさ満点です。

 合流したあとは戸越銀座の谷を流れていき、そのまま三ツ木通りを経由して目黒川(の例の排水口)に注いでいたと思われます。(→ 「1.百反通り」)

 さて、ここで再び地蔵の辻に戻って戸越銀座を目指します。今度は地蔵の辻で右(大森方向)に進みます。

 まず水車のモニュメントがあることで有名なあさひ公園があります。

 次に左側に路地が現れます。ここで水路が分岐して戸越銀座方向に流れていたと言われています。言われなければ分からないほど普通に見える路地ですが。

 この路地に入るとすぐ、右に曲がる2本の隣り合った路地があります。その2本は南東に向かって平行に並んでいます。

 まず手前の路地を曲がります。この手前の路地は比較的まっすぐできれいに整備された路地という印象で、水路の跡と言う感じはあまり受けません。

 もう1本の奥の路地を曲がります。こちらは両端の縁石部分も古そうだし、いかにも痕跡っぽい空気感です。

 なだらかに下っていくと旧中原街道に出る直前に狭くなります。同時に左側の地面が高くなり、また妙に路地側に出っ張った水場があったりして、いよいよ水路の跡っぽいです。

 そして注目ポイントがこの路地の終端、旧中原街道(次の写真の右側)に出たところです。不思議なスペースが広がっています。駐車場ですらなさそうです。全体が奥に向かって高くなる段差になっています。さきほどの路地はこの段差の手前(左の2台の車の向こう側)に出てきます。

 ここがおそらく戸越銀座の川の水源になっていたと言われている池の跡なのだと思います。そしてさきほどの路地を流れてきた水はこの池の横を通過して戸越銀座の川に流れこんでいたんだろうと思います。

  「関東中世水田の研究」という本によれば、品川用水はこの池の南側を通過していたとのことなのですが、南側に回り込むのはちょっと無理がありそうなので、用水の位置か池の位置がずれているのかもしれません。段差の高いほうに池があったのだとすればその南側を用水が通っていたというのは納得できます。

 旧中原街道を横切って南東に進むと中原街道にぶつかり、そのちょうど向こうに戸越銀座の入り口が見えてきます。ここから遠く目黒川まで流れていたんだろうと想像するとなんだか楽しいです。

 というわけで、地蔵の辻から流れてきた3本の水路は戸越銀座の川として「統合」されたことになります。

旧中原街道沿いの流れと池

 ここでちょっと探索経路を逸れて、旧中原街道沿いの流れについて考えてみたいと思います。というのも、多くの資料(例えば大正時代の地図)には、地蔵の辻からの南東向きの複数本の流れとは別に、それらを横切るように旧中原街道沿いに流れているように見える1本の水路が描かれていることが多いのです。

 地図上に示すと次の流れです。

出典:国土地理院電子国土Web(矢印などは加工部分)

 旧中原街道を越える流れは複数ありますし、それらがこの旧中原街道沿いの流れと直角に交わっているように見えるのはいったいどういうことなのか?というのがとても気になりました。そしてそのことについて触れている文章を見たことがありません。

 そこで自分なりに考えてみました。戸越銀座の谷を流れていた川は旧中原街道のそばにあった池が水源であって、戸越銀座の谷を流れていたのは用水ではなく自然な川だったという話を前提として、この辺りの土地の高低を示す等高線と照らし合わせてみました。

出典:国土地理院電子国土Web(矢印などは加工部分)

 白く塗ってある丸い部分が戸越銀座の川の水源だった(と言われている)池があった辺りです。上ですでに出てきていますが現地に行ってみると確かに池があったと思わせる痕跡があります。

 そして旧中原街道はちょうど台地の端のようなところを通る構造になっていて、2つの谷間を越えるように引かれていることが見て取れます。

 実際、旧中原街道を一気に歩いてみると、うっすらと上下にうねっていることが分かります。北東の端から南西に向けて歩き始めると、まず登っていきます。

 奥に中学校のグラウンドの網が見えます。そのグラウンドを過ぎたあたりで今度はゆるく下り坂になります。

 星薬科大の手前ぐらいが一番低いです。ここは先ほど見てきた星薬科大横の流れが横切る辺りです。そして再び登り、池の跡と思われるところの手前で下り始めます。

 写真では分かりにくいですが。

 水は低いほうへ流れることと、自然の川は低いところを、人工の用水は高いところを流れる傾向があることからすると、上の地図に重ねた矢印のように、旧中原街道に沿う流れは左端から右端に流れるというよりも、地蔵の辻のほうからの流れのそれぞれが左右に分岐してその2つの谷間に流れ込むような構造だったんじゃないかと(少し無理やりですが)考えてみました。

地蔵の辻 ~ 平塚橋 ~ 戸越公園

 次は平塚橋の交差点を経由して戸越公園に向かう流れです。

 地蔵の辻で右(大森方向)に進み、さきほど出てきた「戸越銀座の川の水源だった池の跡」に進む路地も通り過ぎると「平塚橋」という名前の交差点に出ます。ここにその名の通り「平塚橋」という橋が架かっていたことは有名です。写真は交差点そばの商店街から眺めた平塚橋の跡と言われる歩道橋です。水路の跡に歩道橋がある典型的なケースと言えそうです。

 この交差点の近くで水路がどのように分岐していたかを地図上で描くと次のようになっていたと思います。一番下の流れは国道1号に沿って南に進む流れで、その次の流れが戸越公園に向かう流れということになります。

出典:国土地理院電子国土Web(矢印などは加工部分)

 まず平塚学園の横の路地を進みます。突き当たりまでゆるやかに下っていきます。

 大正の地図などではこの突き当りで水路は左に曲がるように描かれています。実際に行ってみると同じ高さを維持するのはどちらかと言えば右に曲がるほうで、左側はかなり凹んでいます。

 突き当たったところの路地を南西方向から見るとこうです。平塚学園横の路地はここに左から来て突き当ります。

 この正面の狭くなっているところの右側に小さな社(名前は分かりません)があり、そこにはっきりとした段差があって手前が高くなっています。このあたりを水路が高さを維持しつつ横切っていたとしたほうが説得力がありそうなのですが。

 この段差の延長線上(南東方向)の路地を見てみると、水路の跡っぽい空気感があります。

 そしてこの先のひらさん広場(大きいスポーツ公園)の角に行ってみます。大正の地図などではこの十字路を手前から奥に流れていたように説明されているのですが、十字路手前はあきらかに登り坂になっていて水路の向きとしては下から上に流れていたような不自然な形に思われます。

 例によって等高線を見ながら考えてみました。資料にある流路を実線で、実はこうだったんじゃないの?と勝手に考えた流路を点線で描いています。

出典:国土地理院電子国土Web(矢印などは加工部分)

 この点線の流路なら小さい社の段差のところをなぞって高さを維持しつつ流れていく感じになるかなあと思ったりします。じゃあ地図などが間違っているということ?という疑問には答えられないのですが・・・。

「測量・地図百五十年史」という本をパラパラと読んでみたら、明治ごろの地図作成はそれ以前の地図を写し書きして作られることもよくあったように書かれていたので、前のバージョンの地図で間違ったところに描かれていた水路を次のバージョンでもそのまま継承してしまった可能性もあるよね、と妄想を膨らませたり・・・。

 さて、ここから戸越公園に向かいます。ずっと南東に進むとまず国道1号にぶつかります。ここにもお約束のように歩道橋があるので、このルートが水路の跡だという自信がわいてきます(笑)。


 歩道橋を渡ったちょうど反対側にももちろん水路の跡らしき路地は続きます。国道1号に対して斜めにつながっているところがポイントでしょうか。


 いい感じに蛇行しながら進みます。

 この先で、まっすぐと右とに分岐するところがあり、どちらを進んでも戸越公園に行きつきます。ここは右に曲がって戸越公園(細かく言えば文庫の森)の西側につながるルートを辿ります。まっすぐ進むとこのあと出てきますが文庫の森の北側につながります。

 右に曲がると「ひょっとして暗渠の工事跡なんじゃないか?」と思わせる工事跡がありました。さすがに違うと思いますが。

 進んでいくと住宅の間に怪しいクランクがあります。遠くから見ると行き止まりのように見えますが狭くても抜けることができます。これまた水路の痕跡っぽいです。

 もうすぐ戸越公園(正確にはそのそばの文庫の森)という辺りで不思議なスペースが現れます。この周辺には似たようなスペースが多いですが、水路の痕跡の近くでは良く見る風景でもあります。実際、このあたりには江戸時代、肥後熊本藩の屋敷があったころは池があったので、これらが池の痕跡なのかもしれません。

 そしてここでまた流れは2つに分岐していたようです。水路は文庫の森の西側にぶつかって、文庫の森の中に流れ込んでいたのだろうと思うのですが、そういう水路が2本あったということです。国道1号の歩道橋を渡ってからの水路を地図の上に描いてみました。

出典:国土地理院電子国土Web(矢印などは加工部分)

 分岐した2本はすぐ隣りを平行に流れながら文庫の森の西側に流れ込んでいたと思われます。

 まず北寄りの痕跡を探します。宮前小学校の前の道路を北に向かっていくと、道路の右側(東向き)に痕跡らしきものがあります。残念ながら入っていくことはできないようでした。

 もう一方の南寄りの痕跡も探します。文庫の森に向かっていくと左に折れる細い路地が現れます。行き止まりに見えますが通り抜けられます。

 この路地を入って突き当たって右に曲がるとその向こうに文庫の森が見えてきます。路地自体は水路の痕跡っぽさ一杯です。

 文庫の森の西側に出て路地は終わりますが、そこの歩道も意味ありげな形になっています。

 この写真の道路を少しだけ左(北)に進むと隣を平行して延びていた北寄りの水路の跡と思われる路地を見ることができます。明らかに暗渠ですね。

 ところで文庫の森の北側に延びるほうの水路ですが、上の地図にも示したように、文庫の森の北西の角の近くにつながっていたようです。国道一号の歩道橋のところから東に向かってほぼまっすぐ来ると文庫の森のそばに来たところに小さい公園があってその公園のところで南にぐにょっと曲がって文庫の森につながります。その小さい公園の中から文庫の森のほうを撮ってみました。

 水路はこの写真の右から来て正面の文庫の森のほうに曲がっていたと思います。ちなみに左手前にも分岐して戸越銀座の川にも流れ込んでいたようです。

平塚橋 ~ 国道1号

 大きく分けた3本の水路のうちの最後の水路です。品川用水の流域の西の端にあたります。

 平塚橋のところからスタートします。平塚橋の歩道橋を渡ると交差点の一角に斜めの路地があります。これが水路の痕跡だと言われています。

 この先は都道420号です。それに沿って進みますが水路の跡という点では特に何もないようなのでどんどん進みます。国道1号を越えるまで何もありません。

 国道1号を越えて、まっすぐ進めば戸越公園ですが2つ目の信号で右(南)に曲がります。ここで水路も曲がっていたそうです。曲がった先は普通の住宅地という感じです。

 次は「3.西大井」です。